「努力」の文法

  

同語反復(トートロジー)?

「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。」 

 これは、王貞治の名言としてよく知られているそうですね。今回は、この陳述の背後にある王の意図を度外視し、かかる主張が文字通りに受け取られた場合の意味について考えてみたいと思います。

 

対偶の関係を成す二つの文

 王の主張は二つの文からなりますから、まず、以下のように分解して処理します。

 

 文①:「努力は必ず報われる。」

 文②:「もし報われない努力があるならば、それはまだ努力と呼べない。」

 

 数学Aに「集合と論理」という分野がありますね。そこで教えられる論理学の初歩的な知識を用いると、上の文についてわかることがあります。それは、これらが互いに対偶の関係にあるということです。対偶とは、命題「p→q(pならばq)」と命題「¬q→¬p(qでないならば、pではない)」の間に成り立つ関係のことで、いずれか一方が真であるならば、他方も必ず真となります。文①と文②が対偶の関係にあることがわかりやすいように、便宜上これらを次のように書き換えても良いでしょう。

 

 p:「努力をした」, q:「報われている」

 文①':「努力をしたならば、報われている。」

 文②':「報われていないならば、努力をしなかったのである。」

 

 これで、文①'と文②'の論理的な形式がそれぞれ「p→q(pならばq)」「¬q→¬p(qでないならば、pではない)」であることは判然としました。

 

対偶をとることは、言い換えることにすぎない

 互いに対偶の関係にあるような二つの文を並べるというのがどのようなことなのかをみてとるために、王の主張と論理的な形式を同じくする陳述を以下に二つ挙げましょう。

 

 例1:「他人の気持ちが分かれば、そんなことはやらない。そんなことをやったのならば、それは他人の気持ちがわからなかったからだ。」

 例2:「アルコールを過剰に摂取すると、急性アルコール中毒になる。急性アルコール中毒になっていないならば、アルコールを過剰に摂取してはいない。」

 

 いずれも、二つ目の文が、一つ目の文が述べている以上のことを何も述べていないという意味で、不要だということをお分かりいただけますでしょうか。

 二つ目の文は、一つ目の文と表現方法を異にしているにすぎず、新たな情報を何も伝えていません。言い換えれば、例1は「他人の気持ちが分かれば、そんなことはやらない。」ということを、例2は「アルコールを過剰に摂取すると、急性アルコール中毒になる。」ということを、二回繰り返して述べているのです。こういうものを同語反復(トートロジー)と呼びます。

 文①’と文②’からなる主張も同語反復に陥っています。文②'は、文①'が述べた以上のことを何も述べていないのです。

 

要するに、「努力は必ず報われる」ってこと?

 それでは、王の陳述の意味は畢竟、「努力は必ず報われる」ということなのでしょうか。

 先に私が実施した翻訳、すなわち文①から文①'への、そして文②から文②'への翻訳は、王の陳述に隠された同語反復的(トートロジカル)な形式を抽出する役目を果たしはしましたが、その反面、彼の陳述に潜むもう一つの重大な問題を隠してしまいました。この問題に目を向けるために、我々は再び、彼の陳述に目を向けねばなりません。

 

 文①:「努力は必ず報われる。」

 文②:「もし報われない努力があるならば、それはまだ努力と呼べない

 

 問題の本質は、文②の後半部、「努力と呼べない」という部分にあります。ここに注目すると、「努力は必ず報われる」が経験命題でない可能性が見えるのです。

 

「努力は必ず報われる」は王貞治による文法命題である

経験命題と文法命題

 大雑把に言えば、経験命題とは我々の経験を記述する命題のことで、「この高さから落ちれば、必ず命を落とす」などがそれです。

 経験命題と対比されるべき存在は、文法命題です。これは、語の文法を与える命題で、多くの場合は、実際に我々が語をどのように用いているかを述べています。

 例えば、「生きているのならば、死んではいない」というのは「生きている」と「死んでいる」という表現の文法を述べています。我々が常識的に会話をしている限り、生きていて、尚且つ死んでいる、という可能性を残すような仕方でこれらの表現を使うことはありません。「あいつ、交通事故で死んだらしいよ。まだ生きている可能性もあるらしいけど。」という陳述は文法違反を犯しており、それゆえに理解不能です。

 

文法命題には内容が無い

 文法命題には経験的な情報は一切含まれません。「生きているのならば、死んではいない」という文は、「生きていて、尚且つ死んでいるなどという現象は科学的にはあり得ない」ということを述べる科学的言明ではなく、我々は「生きている」と「死んでいる」という表現を、それらが共に成り立つような仕方では用いない、という文法的事実を述べているのです。言わば、文法命題は我々の言語使用の規則(ルール)を取り出しているにすぎません。

 私が疑っているのは、「努力は必ず報われる」が経験命題ではなく文法命題である可能性です。私は、「努力は必ず報われる」は「この高さから落ちれば、必ず命を落とす」に類する、経験的な情報をもった文ではなく、「生きているのならば、死んではいない」に類する、経験的な情報をもたない文なのではないかと問うているのです。

 

王貞治の「努力は必ず報われる」は文法命題だ

 王の意図を度外視して、文字通りに彼の陳述を理解するならば、「努力は必ず報われる」は文法命題です。というのも二つ目の文はまさに、「努力」という語の使用法に言及するものだからです。

 

文②:「もし報われない努力があるならば、それはまだ努力と呼べない。」

 

王はここで、報われない努力のことを、努力とは呼ばない、という仕方で、「努力」という語の使用規則を与えているのです。

 文①を次のように書き換えれば、「努力は必ず報われる」が文法命題であって経験命題でないというのがどういうことかがわかるでしょう。

 

 文①'':「私は「努力」という語を、それを行えば必ず報われるような行為として定義する。

 

 この定義、すなわち文法規則にのっとれば、<報われない努力を努力と呼ばないこと>は言うに及ばないということがはっきりとわかるでしょう。というのも、これは文①''が与えた語の使用法を言い換えているにすぎないからです。それを行えば必ず報われるところの行為が「努力」なのだから、それを行っても報われない行為は「努力」ではないのです。したがって、やはり文②が不要であったことが確認されました。

 

王貞治の文法

 しかしながら、「努力は必ず報われる」が、「努力」という日本語の一般的な使用法を取り出した文法命題でないことは明らかです。というのも、もしもこれが実際に我々が遵守している文法規則であったならば、「努力したが、報われなかった」といった表現は、「生きていて、且つ死んでいる」と同様に使用不可能であるはずだからです。しかしながら、我々は「努力したが、報われなかった」や「今ひとつ、努力が足りなかった」といった文を有意味に使用できます。したがって、「努力は必ず報われる」は、「努力」という語の一般的な使用法ではなく、あくまでも王の「努力」の定義を述べる文法命題であるといえます。

 

文法命題は、事実を「評価」しない

 文法命題を述べることによって、経験的事実に何らかの評価を下すことができないということは重要です。

 王と「私が努力をしたかどうか」について話し合う機会があったならば、結果が伴ったか否かを基準に「努力」という語を使用すれば完全に意思疎通に成功するでしょう。そこで例えば、「私」が結果を出せていなかった場合に、「私は努力をしていないのだ」と述べて、何やらネガティヴな心境に陥ることはありません。というのも、「努力は必ず報われる」というのは文法命題であり、それに則って「努力」という語を使用したとて、「私」がそれまで結果を出そうとして行ってきた行為に、「その行為には結果が伴わなかった」という以上の判断ないし「評価」は下され得ないからです。

 

検証可能性という問題

 結果を出せなかった者が、王の定義に則って「私は努力をしなかった」と述べたとして、そうすることが、「結果が伴わなかった」という文を述べること以上の精神的ダメージを彼に与えたのならば、彼は言語に惑わされています。このとき、彼は恐らく「努力をしたつもりだったのに、本当は努力をしていなかったのだろうか」といった強迫観念に陥っているのでしょうが、これは「鍵を閉めたつもりだったのに、本当は鍵を閉めていなかったのだろうか」と同様の思考を、不適切な文脈で行っているのです。今回議論された文脈がそれにあたります。というのも、ここでは経験を省みて自己の認識を改める余地が全くないからです。

 鍵の例では、「鍵を閉めたつもり」という認識が間違っていたのかもしれませんし、また泥棒が巧妙な手口で鍵を開錠したのかもしれません。したがって、「私が本当に鍵を閉めたのかどうか」を検証する余地があります。

 一方、「努力」の問題については、王の提示する文法規則に則る限り、「私が努力をしたかどうか」を検証する余地は全くないのです。というのも、彼の定義を受け入れる場合、結果が出ているか否かという客観的事実以外に、「努力をしたかどうか」を判断する基準がないからです。

 

終わりに:王貞治の文法は、「努力」についての語りを無意味にする

 このように考えると、王の意図がどのようなものであったにせよ、文字通りに理解する限り、彼の陳述は「努力」という概念そのものを不必要にしてしまうとさえ言えます。というのも彼の陳述は、文字通り「結果が全て」と言い換えられてしまうからです。

 王の定義を受け入れた場合、「努力」という、結果を導き出すまでの過程について語ることは意味をなさなくなるだけでなく、結果を出そうとして日々懸命に生きていたとしても、結果が出る日までは、自分が努力をしているのか否かは全くわからない、という奇怪な帰結が導出されてしまうでしょう。