改竄された過去を再構成する

 

現実からの逃避

十三年前の嘘 

 私はかつて、バイオリニストとして生計を立てていくことを夢見ていましたが、コンクールで成績を出せなかったことをきっかけに学問の道へ転向しました。十一歳の幼い私は、かかる路線変更に次のような正当化を与えていたように思います。「芸術の世界では、努力は定量的に評価され得ない。学問の世界においては、努力は過不足なく報われる。私は確実に成功を掴める道を歩む。」言葉遣いはともかく、内容に関する限り、脚色は含まれていません。

ありがちな解釈

 私はこれまで、現実に対してかかる正当化を施した過去の自分自身を糾弾してきましたが、その背後には次のような理解がありました。すなわち、努力が報われる世界とそうでない世界とが存在するわけでもなければ、コンクールでの敗退が音楽という分野の特性に起因するわけでもない。端的に、私は最大限の努力をしておらず、その事実に目を向けることを拒んでいた、と。

 要約すれば、私が自身の過去に与えた評価は、<現実からの逃避>でした。

 ところが、直近の経験に鑑みて過去を再構成すると、かかる理解が不十分である可能性が浮上してきたのです。

 

新たなる解釈の可能性

他者による評価と幸福

 私は一月ほど前にPodcast番組の配信を始めました。目的意識も希薄なまま、行為それ自体に楽しみを見出しつつ収録・編集・配信を継続してきたわけですが、有難いことに視聴者が増え始めると、私が長らくそれと縁を切っていた、ともすれば不幸をもたらすところの存在者と、自身が濃厚な関係を築いていることに気付かされたのです。それはすなわち、他者による評価です。

 これは経験則に基づく持説であるため、異論の余地は大いに存在しますが、他者が下す評価を憂う状態というのは幸福感からは程遠いように思います。どこかの時点でこれを悟った私は、他者による評価の届かない領域に隠居するようになったのでしょう。大学に入学し、夜と出会って哲学に恋をした経緯にはこうした事情があったのかもしれません。 

哲学という「個人主義」?

 私見では、哲学は数多の学問分野の中でも最も「個人プレイ」感の強い分野の一つです。個々の学者がそれぞれの関心領域を掘り下げていて、領域特有のジャーゴンや論法を確立しがちであるため、門外漢による干渉の可能性が極めて低いのです。特定の専門分野に精通した、「互いに話の通じる」少数の学者らの間で研究が進み、その成果が他の哲学者に全くもって理解されないということが少なくないように思われます。

「私」の存在しない世界

 また別の観点では、そもそも他者による評価が不可欠であるところの論文においてさえ、矛盾や誤謬の指摘は心的ダメージをもたらしません。というのも、問題の所在が論文執筆者個人の内であるという気がされないからです。論理的な観点からして解決されるべき問題が執筆者の外部に存在していて、それを執筆者と査読者が共に眺めている。査読者の助言に従って、執筆者は曇りのない目で当該の問題を見ようとする。問題は限りなく客体化された状態にあるのです。

極めて個人的な問題

 ところが、ここ数日間に渡って私に波状攻撃を加えている問題群はこの種のものではありません。それらは差し当たり、私が客体化できるようなものではないように思われます。声質、笑い方、話す速度、相槌、語彙の乏しさ、知識や教養の不足、etc.、こうした事柄は極めて個人的で、原理的に客体化され得ない問題であるという描像が今の私を強く支配しており、これが払拭される兆しはみられません。

 これらの問題が自覚されるだけでも相当程度の不快感を覚えるのですから、他者にこうしたことを指摘された場合の心的ダメージが極大となることは言うに及びません。ここ数日、私の脳内は他者による評価で飽和しています。

忘却された真相 

 屈託に沈みがちな自己を可能な限り客観視する中で、これが、長らく忘却されていた精神の闇であること、そして、これこそが、私が十三年前に音楽の道を自ら閉ざした本当の理由である、ということの確からしさが自身の内で強く意識されるようになりました。

 私の過去に与えられるべき正当な評価は、<他者からの逃避>であったと思います。