「努力」の文法

  

同語反復(トートロジー)?

「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。」 

 これは、王貞治の名言としてよく知られているそうですね。今回は、この陳述の背後にある王の意図を度外視し、かかる主張が文字通りに受け取られた場合の意味について考えてみたいと思います。

 

対偶の関係を成す二つの文

 王の主張は二つの文からなりますから、まず、以下のように分解して処理します。

 

 文①:「努力は必ず報われる。」

 文②:「もし報われない努力があるならば、それはまだ努力と呼べない。」

 

 数学Aに「集合と論理」という分野がありますね。そこで教えられる論理学の初歩的な知識を用いると、上の文についてわかることがあります。それは、これらが互いに対偶の関係にあるということです。対偶とは、命題「p→q(pならばq)」と命題「¬q→¬p(qでないならば、pではない)」の間に成り立つ関係のことで、いずれか一方が真であるならば、他方も必ず真となります。文①と文②が対偶の関係にあることがわかりやすいように、便宜上これらを次のように書き換えても良いでしょう。

 

 p:「努力をした」, q:「報われている」

 文①':「努力をしたならば、報われている。」

 文②':「報われていないならば、努力をしなかったのである。」

 

 これで、文①'と文②'の論理的な形式がそれぞれ「p→q(pならばq)」「¬q→¬p(qでないならば、pではない)」であることは判然としました。

 

対偶をとることは、言い換えることにすぎない

 互いに対偶の関係にあるような二つの文を並べるというのがどのようなことなのかをみてとるために、王の主張と論理的な形式を同じくする陳述を以下に二つ挙げましょう。

 

 例1:「他人の気持ちが分かれば、そんなことはやらない。そんなことをやったのならば、それは他人の気持ちがわからなかったからだ。」

 例2:「アルコールを過剰に摂取すると、急性アルコール中毒になる。急性アルコール中毒になっていないならば、アルコールを過剰に摂取してはいない。」

 

 いずれも、二つ目の文が、一つ目の文が述べている以上のことを何も述べていないという意味で、不要だということをお分かりいただけますでしょうか。

 二つ目の文は、一つ目の文と表現方法を異にしているにすぎず、新たな情報を何も伝えていません。言い換えれば、例1は「他人の気持ちが分かれば、そんなことはやらない。」ということを、例2は「アルコールを過剰に摂取すると、急性アルコール中毒になる。」ということを、二回繰り返して述べているのです。こういうものを同語反復(トートロジー)と呼びます。

 文①’と文②’からなる主張も同語反復に陥っています。文②'は、文①'が述べた以上のことを何も述べていないのです。

 

要するに、「努力は必ず報われる」ってこと?

 それでは、王の陳述の意味は畢竟、「努力は必ず報われる」ということなのでしょうか。

 先に私が実施した翻訳、すなわち文①から文①'への、そして文②から文②'への翻訳は、王の陳述に隠された同語反復的(トートロジカル)な形式を抽出する役目を果たしはしましたが、その反面、彼の陳述に潜むもう一つの重大な問題を隠してしまいました。この問題に目を向けるために、我々は再び、彼の陳述に目を向けねばなりません。

 

 文①:「努力は必ず報われる。」

 文②:「もし報われない努力があるならば、それはまだ努力と呼べない

 

 問題の本質は、文②の後半部、「努力と呼べない」という部分にあります。ここに注目すると、「努力は必ず報われる」が経験命題でない可能性が見えるのです。

 

「努力は必ず報われる」は王貞治による文法命題である

経験命題と文法命題

 大雑把に言えば、経験命題とは我々の経験を記述する命題のことで、「この高さから落ちれば、必ず命を落とす」などがそれです。

 経験命題と対比されるべき存在は、文法命題です。これは、語の文法を与える命題で、多くの場合は、実際に我々が語をどのように用いているかを述べています。

 例えば、「生きているのならば、死んではいない」というのは「生きている」と「死んでいる」という表現の文法を述べています。我々が常識的に会話をしている限り、生きていて、尚且つ死んでいる、という可能性を残すような仕方でこれらの表現を使うことはありません。「あいつ、交通事故で死んだらしいよ。まだ生きている可能性もあるらしいけど。」という陳述は文法違反を犯しており、それゆえに理解不能です。

 

文法命題には内容が無い

 文法命題には経験的な情報は一切含まれません。「生きているのならば、死んではいない」という文は、「生きていて、尚且つ死んでいるなどという現象は科学的にはあり得ない」ということを述べる科学的言明ではなく、我々は「生きている」と「死んでいる」という表現を、それらが共に成り立つような仕方では用いない、という文法的事実を述べているのです。言わば、文法命題は我々の言語使用の規則(ルール)を取り出しているにすぎません。

 私が疑っているのは、「努力は必ず報われる」が経験命題ではなく文法命題である可能性です。私は、「努力は必ず報われる」は「この高さから落ちれば、必ず命を落とす」に類する、経験的な情報をもった文ではなく、「生きているのならば、死んではいない」に類する、経験的な情報をもたない文なのではないかと問うているのです。

 

王貞治の「努力は必ず報われる」は文法命題だ

 王の意図を度外視して、文字通りに彼の陳述を理解するならば、「努力は必ず報われる」は文法命題です。というのも二つ目の文はまさに、「努力」という語の使用法に言及するものだからです。

 

文②:「もし報われない努力があるならば、それはまだ努力と呼べない。」

 

王はここで、報われない努力のことを、努力とは呼ばない、という仕方で、「努力」という語の使用規則を与えているのです。

 文①を次のように書き換えれば、「努力は必ず報われる」が文法命題であって経験命題でないというのがどういうことかがわかるでしょう。

 

 文①'':「私は「努力」という語を、それを行えば必ず報われるような行為として定義する。

 

 この定義、すなわち文法規則にのっとれば、<報われない努力を努力と呼ばないこと>は言うに及ばないということがはっきりとわかるでしょう。というのも、これは文①''が与えた語の使用法を言い換えているにすぎないからです。それを行えば必ず報われるところの行為が「努力」なのだから、それを行っても報われない行為は「努力」ではないのです。したがって、やはり文②が不要であったことが確認されました。

 

王貞治の文法

 しかしながら、「努力は必ず報われる」が、「努力」という日本語の一般的な使用法を取り出した文法命題でないことは明らかです。というのも、もしもこれが実際に我々が遵守している文法規則であったならば、「努力したが、報われなかった」といった表現は、「生きていて、且つ死んでいる」と同様に使用不可能であるはずだからです。しかしながら、我々は「努力したが、報われなかった」や「今ひとつ、努力が足りなかった」といった文を有意味に使用できます。したがって、「努力は必ず報われる」は、「努力」という語の一般的な使用法ではなく、あくまでも王の「努力」の定義を述べる文法命題であるといえます。

 

文法命題は、事実を「評価」しない

 文法命題を述べることによって、経験的事実に何らかの評価を下すことができないということは重要です。

 王と「私が努力をしたかどうか」について話し合う機会があったならば、結果が伴ったか否かを基準に「努力」という語を使用すれば完全に意思疎通に成功するでしょう。そこで例えば、「私」が結果を出せていなかった場合に、「私は努力をしていないのだ」と述べて、何やらネガティヴな心境に陥ることはありません。というのも、「努力は必ず報われる」というのは文法命題であり、それに則って「努力」という語を使用したとて、「私」がそれまで結果を出そうとして行ってきた行為に、「その行為には結果が伴わなかった」という以上の判断ないし「評価」は下され得ないからです。

 

検証可能性という問題

 結果を出せなかった者が、王の定義に則って「私は努力をしなかった」と述べたとして、そうすることが、「結果が伴わなかった」という文を述べること以上の精神的ダメージを彼に与えたのならば、彼は言語に惑わされています。このとき、彼は恐らく「努力をしたつもりだったのに、本当は努力をしていなかったのだろうか」といった強迫観念に陥っているのでしょうが、これは「鍵を閉めたつもりだったのに、本当は鍵を閉めていなかったのだろうか」と同様の思考を、不適切な文脈で行っているのです。今回議論された文脈がそれにあたります。というのも、ここでは経験を省みて自己の認識を改める余地が全くないからです。

 鍵の例では、「鍵を閉めたつもり」という認識が間違っていたのかもしれませんし、また泥棒が巧妙な手口で鍵を開錠したのかもしれません。したがって、「私が本当に鍵を閉めたのかどうか」を検証する余地があります。

 一方、「努力」の問題については、王の提示する文法規則に則る限り、「私が努力をしたかどうか」を検証する余地は全くないのです。というのも、彼の定義を受け入れる場合、結果が出ているか否かという客観的事実以外に、「努力をしたかどうか」を判断する基準がないからです。

 

終わりに:王貞治の文法は、「努力」についての語りを無意味にする

 このように考えると、王の意図がどのようなものであったにせよ、文字通りに理解する限り、彼の陳述は「努力」という概念そのものを不必要にしてしまうとさえ言えます。というのも彼の陳述は、文字通り「結果が全て」と言い換えられてしまうからです。

 王の定義を受け入れた場合、「努力」という、結果を導き出すまでの過程について語ることは意味をなさなくなるだけでなく、結果を出そうとして日々懸命に生きていたとしても、結果が出る日までは、自分が努力をしているのか否かは全くわからない、という奇怪な帰結が導出されてしまうでしょう。

「価値観の違い」(後編):「乗り越えがたい壁」を乗り越える

 

後編前記 

 前編では、「価値観の違い」という表現の使用を次のような切り口で批判しました。すなわち、意見の相違が認められるときに、この表現によって何事かを指摘し得たかのように思われるのは、言語がもたらした幻惑なのである。そして、議論を通して互いの主張の意味や前提条件を明確化するならば、見解の相違が表面上のものに過ぎないということ、或いは相違の内実が明らかになるだろう、と。かかる批判は、「価値観の違い」という表現に内在する危険性を認識しない言語使用者に向けられており、筆者の提案を簡潔に述べるならば、「その表現は空っぽだから、もう少し話し合って、よく考えよう」ということになるのでした。

 後編では、議論の末に顕現する「乗り越えがたい壁」を「価値観の違い」と呼ぶべきか否かを考え、己の信条にしたがって「価値観の違い」という表現を意識的に使用する俗流相対主義者を批判します。 

二つの相対主義と「乗り越えがたい壁」

俗流相対主義と 「乗り越えがたい壁」

  <あらゆる意見は、それをもつ者の立場によって正当化される>とする考え方を俗流相対主義と呼びます。意見の相違が認められる場合に、「どの意見も間違いではなく、それぞれがそれぞれの仕方で正しい」というスタンスをとる者は俗流相対主義者です。

 俗流相対主義者のうちには、<どれだけ議論を重ねても原理的に解消され得ないような相違が存在する>という前提があります。今後、このような相違を「乗り越えがたい壁」と呼ぶことにしましょう。

 注意すべきは、以下で展開されることになる批判が、「乗り越えがたい壁」の存在を認めることそれ自体に向けられるものではないということです。問題の所在は、かかる乗り越えがたさをどのように理解するかにあります。

 

概念枠相対主義と「乗り越えがたい壁」

 私は、<どれだけ議論を重ねても原理的に解消され得ないような相違が存在する>という前提を受け入れる点においては、俗流相対主義者と足並みを揃えます。私は、「乗り越えがたい壁」が、事実として人々の間にしばしば出現することを認めています。<原理的に解消され得ない相違が存在する>という前提を受け入れることが相対主義へのコミットメントを意味するのであるならば、私は相対主義者でしょう。

  しかしながら、私は俗流相対主義者ではありません。言うなれば、私は概念枠相対主義者です。概念枠というのは、経験を通して人が獲得した概念の総体であり、その人が世界を理解する可能性の総体です。概念枠相対主義というのは、人々の間に概念枠の相違があるために、相互理解が得られない可能性がある、という考え方です。以下、具体的な事例を用いて詳述しましょう。

 

「性欲」という概念の獲得

 本稿の内容のレヴェルを考慮すれば、読者の皆様が「性欲」という概念を獲得しているであろうことは間違いないでしょう。

 ここで、「性欲」という概念を説明するよう求められて、文字通り生き字引のごとく翻訳を与えることができる必要はありません。「性欲」という語彙が登場する文、例えば「性欲が強い」や「性欲に襲われた」等を理解したり、「不倫」という語から「性欲」を連想できたりするのであれば、その者は「性欲」という概念を獲得していると言えるでしょう。

 それでは、八歳の少年少女は「性欲」という概念を獲得しているでしょうか。恐らくは、否、でしょう。このことが、彼らの国語力の低さに起因するのではないということは重要です。仮に言語使用に熟達した八歳児が、辞典で「性欲」という語彙に出会ったとしても、彼はその概念を獲得しないでしょう。ここで、「性欲」という概念を獲得するというのは、上で述べられた例文を理解したり、文脈の上で関連性のある他の語彙から「性欲」を連想したりすることだということを思い出してください。辞書の説明を読んだだけでは、どれだけ国語力が高かったとしても、彼にできるのはせいぜい、その説明を繰り返すことくらいでしょう。

 八歳児が「性欲」という概念を獲得することの不可能性は、次のことに起因します。すなわち、「性欲」という概念の獲得は、言語運用能力の他に「性欲」に特有の経験を必要とし、八歳時はそのような経験を享受し得ない、ということです。肉欲が原因で理性を失いかける、というような経験をしない限り「性欲に襲われる」という文を理解することはできないでしょう。また、「人によって性欲の強さは異なる」という文を理解するためには、「性欲」という語彙を理解する他者と「性欲」について対話を行う必要があるでしょう。八歳児は、こうした経験を享受するのに十分な身体的発達を欠いています。だからこそ、八歳児は「性欲」という概念を原理的に獲得し得ないのです。

 

概念枠のズレが齟齬を生む

 八歳の少年少女がもつ概念枠は、私や読者のそれに比して、「性欲」という概念の分だけ未熟、未発達です。それでは、このようにして概念枠を異にする二人の人間が対話を行う場合に、どのようにして相違が顕在化するのかを考えてみましょう。

 八歳の少年と私がテレビでニュースを見ており、そこで芸能人の不倫事件が扱われていたとします。このとき、少年は不貞行為に及んだ人物を糾弾します。「伴侶以外の人を好きになるなんて、あり得ない。僕は一生、誠実に生きる自信がある。」という具合に。一方、私は当事者に対して理解を示します。「現在バイアスに抗えなかったか。」と。

 ここで両者の間にみられる態度の違いは、価値観の相違に起因するのではありません。「性欲」という概念をもたない八歳の少年は、人が不倫行為に及ぶ経緯を理解していないのです。したがって、「好きな人を一生大切にする」と宣言している彼は、必ずしも「誠実」だとは言えません。というのも、彼は未だ、誠実に生きることの難しさを知らない身分であるのですから。

 

概念枠の相違は、経験の相違を意味する

 興味深いのは、他者の不倫行為に理解を示さないのは、「性欲」という概念をもたない少年少女だけではない、ということです。「性欲」という概念を獲得して久しい大人たちの中にも、有名人の不倫報道に並々ならぬ興味を示して、非難の声をあげる者は少なくないでしょう。こうした、社会的に抹殺されかねない哀れな有名人達を激しく糾弾する大人と、彼らに理解を示す大人との間には、やはり概念枠の相違があると思われます。

 上で展開された、「性欲」という概念の獲得についての議論を通して、既にそれを洞察された読者もおられるかもしれませんが、概念枠というのは経験を通して拡張されます。それゆえ、概念枠の相違は、経験の相違の結果なのです。他者の不倫行為に理解を示す大人と示さない大人との間にもまた概念枠の相違が、したがって経験の相違があります。それは、「モテる」という経験の相違に他なりません。

 不倫行為に及ぶ芸能人というのは、恐らく一般の人々以上に何らかの魅力を持っているのでしょう。それは容姿であるかもしれませんし、コミュニケーション能力、或いは経済力かもしれません。幸か不幸か、彼らは、その魅力に惹きつけられて集まった同様に魅力的な人間達に囲まれています。そしてその中には、一線を超えるよう誘惑する者もあるでしょう。

 これは、ごく一部の人間にのみ与えられる類まれな経験であり、大多数は、これほどまでに理性を試される状況に身を置くことはありません。換言すれば、「モテない人」は、「モテる人」の悩みを理解するのに十分な経験、すなわち「モテる」という経験を欠いています。

 言うまでもありませんが、ここでは勿論、十分な経験を積んで概念枠が拡張されると、不倫行為に対する善悪の判断が揺らぐ、ということが主張されているのではありません。概念枠の拡張された者は、「不倫は善くない」ということには強く同意しつつも、己が善とすることを徹底できない人間の弱さを理解でき、自分もまた肉欲の被害者になる可能性を考えられる、ということです。

 

俗流相対主義を批判する

経験的非対称性

 人々の間に見解の相違が認められた場合、俗流相対主義者は、個々の意見をそれぞれの立場によって正当化するのでした。言い換えれば、俗流相対主義者にとっては、あらゆる意見は正しく、議論に参加している者たちは互いに平等な地位に置かれているのです。

 しかし、八歳の少年と私は、不倫行為の議論においては決して平等な関係にはありません。「性欲」という概念を獲得していないという点において、八歳の少年は圧倒的に不利な立場にあり、彼がどれだけ表面上論理的な議論を展開したとしても、「彼は経験不足による情報不足に陥っている」として、私は確信を持って彼の結論を棄却できるでしょう。これは特異な状況ではなく、例えば教育現場で働く大人は子供に対してこうした態度を頻繁に取るでしょう。

 ここで注意すべきは、かかる経験的非対称性は、大人と子供の間のそれに留まらないということです。大人同士でも、大人と子供の間に認められるのと本質的に同様の非対称性が存在します。大学卒業後も読書をし、思索を行い、他者と議論を交わし、新しい経験を享受するのならば、概念枠は拡張され続けます。こうした生活を送る者の概念枠と、義務教育で学習をやめた者の概念枠との間には、教師と生徒の間に認められるのと同様の非対称性が存在します。

 

概念枠相対主義パターナリズム

 同じ相対主義者でも、「人々の意見は、等しく正しいのだ」とする俗流相対主義者と、「概念枠の発達の度合いに応じて、人々の主張の正当性には非対称性が認められる」とする、筆者のような概念枠相対主義者とでは、前者の方が番人受けするでしょう。というのも、一般に「平等」は好まれるものだからです。

 概念枠相対主義者の中には、概念枠の発達の度合いに応じて権力関係を作り出し、議論というよりも寧ろ、パターナリスティックな「知識享受」と呼ぶべき行為に及ぶ者もいるかもしれません。なるほど、これは議論としては理想的な状態ではありません。しかし、こうした問題は議論の技術を高めることによって回避できます。

 筆者が受けた学部教育には、ディスカッションの授業がありましたが、これを通して学生達が学ぶべきは次のことでした。すなわち、知識や経験の程度に偏りがあったとしても、発言の量が平等になるよう努力すること。そして、議論への参加者の中でもっとも知識が豊富である者も、議論の末に新たな知識を手にすることができるような対話を目指すことです。

 議論において、発言に偏りが見られたり、一部の意見が蔑ろにされたりするという問題は、概念枠相対主義に内在する問題ではありません。それは、専ら議論の技術に関わるものです。言い換えれば、概念枠の発達度に関する非対称性を認めたとしても、議論が無価値になるわけではないのです。というのも、概念枠の相違が認められるのであれば、これを解消すれば良いからです。

 

「乗り越えがたい壁」を乗り越える概念枠相対主義

 注意深い読者は、矛盾を指摘するかもしれません。筆者は「乗り越えがたい壁」の存在を認める概念枠相対主義者であり、「乗り越えがたい壁」は原理的に解消できないのであるから、これを「解消すれば良い」というのは自己矛盾なのではないか、という具合に。

 ここで、「性欲」の例を思い出しましょう。八歳の少年と私の間には経験的非対称性があり、対話の中で顕現した「乗り越えがたい壁」は確かに解消され得ません。しかしながら、この少年が身体的な発達を遂げ、十分な経験をしさえすれば、彼はいずれ「性欲」という概念を獲得するでしょう。私は、彼がそれを獲得する時をひたすら待てば良いのです。その時がくれば、私は彼と「性欲」について語らうことができます。そして我々は、有名人の不倫行為に対する見方の相違を解消するかもしれません。

 概念枠の相違は必ずしも、解消するのにこれだけ長い時間がかかるわけではありません。「性欲」のごとき、その獲得において経験に依存するところの多い概念はともかく、例えば大学で学生達が議論するような場合については、その場で知識を補い合う力さえ持っていれば簡単に解消されてしまうようなつまらない差異がほとんどでしょう。

 <どれだけ議論を重ねたとしても原理的に解消され得ないような相違>すなわち「乗り越えがたい壁」は、なるほど時間 t を固定すれば、確かに原理的に解消不可能です。しかし、未来まで時間を拡張して考えれば、決して乗り越えられないわけではないのです。というのも、十分な知識や経験が伴うのを待ちさえすれば、概念枠の相違は解消されるのですから。つまり、概念枠相対主義においては、「乗り越えがたい壁」は乗り越えられるのです。

 

「乗り越えがたい壁」を置きたがる俗流相対主義

 一方、俗流相対主義者は、非対称的な関係を忌避することからか、形式的に対等な関係を厳守します。そして見解の相違が認められる場合には、ここに「立場」や「価値観」の相違が存在する、とします。

 ここでは、「乗り越えがたい壁」は、時間 t においては勿論、将来的にも解消される可能性をもたない障壁となります。というのも、俗流相対主義においては、「私」の意見は「私」の立場によって正しく、「私」が「私」でなくなることはないからです。

 俗流相対主義者は、「互いを認め合う」と表現されれば聞こえは良いのでしょうが、結局のところ、<自身の考えを絶対的に肯定する>という暴挙を互いに認め合っているに過ぎないのです。「みんなちがって、みんないい」というのは、裏を返せば、「私は自分のやり方を疑いたくない。だから、君のやり方を疑うこともしない。」なのです。

 なるほど、俗流相対主義者は自身の考えを押し付けませんから、その点においては一定程度の人間的魅力を持っているのかもしれません。しかしながら、ともすれば連想されがちであるところの、「多様な意見を受け入れそう」という肯定的な印象は、まやかしであると言わざるを得ません。というのも、彼は、自身が盲目的に信仰している事柄を疑う気のない不誠実な人間なのですから。

 

終わりに

 前編・後編に分けて、「価値観の違い」という表現を批判的に考察してきました。前編では、この表現の使用に思考が伴っていないことを、後編では、この表現の使用に誠実さの欠如が認められることを指摘しました。両方を読まれた読者は、「価値観の違い」という表現を使用したいという誘惑から解放されたはずです。

 「価値観の違い」という表現は、人々の間で見解の相違が認められる場合に頻繁に使用されます。そして、「価値観が違うのだから、認め合おう」というようなことが言われます。しかし、結論を述べ合って会話を終わらせることは「互いを認め合う」ことにはならないでしょう。各々が、相手の思考過程に興味を持ち、尚且つ己の結論を疑うこと、これこそが「互いを認め合う」ことです。そして、これを行うことにとっては、少なくともそれが議論を停止させる効力を発揮するのであれば、「価値観の違い」という表現は有害であり、使用されないのが妥当でしょう。

 

「価値観の違い」(前編):有意味であるという幻惑を払拭する

 

「価値観」という空虚な概念

 

 「価値観の違い」「考え方の違い」といった表現が使用される文脈は多岐に渡ります。親と意見が食い違えば「価値観の違い」、離婚の原因は「価値観の違い」、異国の人との対話で齟齬が生まれれば「価値観の違い」、etc.

 本稿において私は、一般的には自然だとみなされ得るであろう「価値観の違い」の使用が、実際には不適切であるということを幾つかの文脈を通して示していきます。

 

例1:「床材は何色にすべきか」

 次のような例を考えてみましょう。家を建てようとしている新婚夫婦が、床材の色をめぐって意見を対立させています。

 夫「俺は、床材は白色が良いと思う。」
 妻「私は、床材は黒色が良いと思う。」
 二人「価値観が合わないね。では、離婚するとしよう。」

 上記が離婚に至るほどの問題であるかどうかはともかく、こうした意見衝突を「価値観の違い」で説明する人々は一定程度存在するのではないでしょうか。読者の皆さんのうち、上で二人が「価値観が合わない」と結論したことに違和感を覚え、尚且つその理由を洞察する者は、以下を読み進める必要はありません。

 この例においては、個人の色の好みが問題になっていますから、何色のシャツを好むか、といった趣味判断と同様のものと思われ、したがって議論の余地がないと思われるかもしれません。しかしながら、「価値観の違い」として片付ける前に二人にできたことは様々にあり得ます。

 

「なぜ」と問うてみる

 子供にもできるのは、とりあえず「なぜ」と問うてみることです*1。勿論、「なぜ」と問うことがナンセンスであるような文脈は存在します*2。今回の文脈がそれに該当するか否かを判断するのは、「なぜ」と問うてみてからにしましょう。


妻「なぜ白色が良いのか。」
夫「部屋が明るくなるからだよ。部屋が明るいと、気分も明るくなる。」

 なるほど上のやりとりからは、「なぜ」と問うことはナンセンスでなかったのだとわかります。夫にとっては、床材として白色を好むことは、理由や説明を与える余地のないことではなかったのでしょう。実際に彼は目的論的な説明を与えることに成功しています。では、妻の方はどうでしょう。

夫「なぜ黒色が良いのか。」
妻「床材の色が暗めだと、心が落ち着くからよ。」

 妻の方も、床材に暗めの色を選ぶことの背景には合理的な説明があるようです。

 以上を踏まえ、意見の相違を整理しましょう。夫は部屋の明るさを、妻は部屋の落ち着きを強調しています。ここではもはや、<白色が好きか黒色が好きか>という、色の嗜好が問題ではなかったことがわかるでしょう。問題は寧ろ、<明るい部屋で明るい気分になりたいか、落ち着きのある部屋で落ち着いた気分になりたいか>という相違にあります。

 二人「価値観が合わないね。では、離婚するとしよう。」

 今回はどうでしょう。読者の皆さんは、二人は「価値観の違い」を持ち出すに相応しい局面に到達したと思われたでしょうか。理性的な議論は「気分」など扱い得ないから、これ以上話しても無駄だ、と諦められた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 私は、まだまだ諦めません。

 

「二重は絶対に良い」?

 ここで議論を前進させる論点として容易に思い浮かぶのは、次のものです。すなわち、床材の色の決定に関しては、先に述べられた「部屋を明るくする」や「部屋を落ち着かせる」といった根拠が絶対的に有意な地位を持っているのでしょうか。床材の色以外の、部屋を構成する諸要素が根拠となることはないのでしょうか。或いは、こう言うこともできるでしょう。床材の色は、部屋を構成する諸要素と相互依存的でないような仕方で、部屋を良くしたり悪くしたりするのでしょうか。

 アナロジーとして、人の顔について話しましょう。日本人には、「二重」や「大きな目」についてコンプレックスを抱えている方が多くいらっしゃるように思います。電車に乗ると、二重整形の宣伝広告がしばしばみられます。あたかも、二重であることが「絶対的に良い」と言わんばかりです。

 しかし、二重でないにも関わらず容姿が美しい人々(いくらでも存在します)は、二重整形をすればもっと美しくなるのでしょうか。或いは、とりあえず目が大きければ良いのでしょうか。私は、「目が大きくて、宇宙人みたいだ」という、多少なりともマイナスの印象を抱いた相手は過去に存在します。私はここで、「顔の大きさや鼻とのバランスを考えると、この人は目が細ければ絶妙に美しかったはずだ」ということを積極的に主張しています。

 我々は「二重」や「大きい目」について話すとき、目が大きい(或いは細い)ことが、絶対的に良い(或いは悪い)という描像を抱きがちですが、必ずしもそうとは限らないということは容易に想像され得ます。我々は実際、人の顔を見るとき、その個々のパーツというよりも寧ろ、その相貌をみています。彼の顔は芸能人の〇〇に似ている、という認識が先で、具体的にどのパーツが似ているのかという判断はその後に来る、という現象などはまさに、我々のそうした性質を示唆しています。

 要約すれば、こうなります。ある特定の要素の絶対的な良さや悪さについて論ずることは、我々において実際に行われている美的判断と必ずしも整合的ではないのです。

 以上を踏まえ、床材の色についての例に戻りましょう。

 

美的判断は「計算」ではない

 部屋の床材の色は、天井の高さ、吹き抜けであるか否か、窓が設置されている方角、間取り、家具の色といった、部屋を形成する、床材以外の諸要素と相互依存関係にあるのではないでしょうか。例えば、建設予定の家に二人が持ち込もうとしている家具の色が全て白色である、或いは黒色である、といった要素が考慮に入れられていない可能性はあります。床材に対して家具が浮き立つのが良い、或いは悪い、といったことまで含めて考えると、「床材の色が明るいと部屋が明るくなる」「床材の色が暗いと部屋が落ち着く」といった判断基準は、床材の色の決定に関して絶対的に優位な位置にある、とは言えないのではないでしょうか。

 夫と妻の双方が以上を理解した場合、次のような描像を得られると思います。すなわち、はじめに抱えていた意見の衝突はもはや衝突ですらなく、他の諸要素から独立に床材の色を論じた場合の、特定の色が持つ特定の効用が話されていたに過ぎない。そして、床材の色の決定は、他の諸要素を踏まえた綜合的な検討の末になされねばならない、と。

 

「価値観」は空っぽだった

 以上の議論から二つのことがわかります。一つは、「価値観の違い」として片付ける前に考えるべきことは多く存在するということです。実際、上の議論では、特定の色がもたらす効用についての情報が共有されただけでなく、そうした効用を基に部屋全体の良さを論ずることの妥当性についても触れられ、結果として床材の色の決定は先送りとなりました。もう一つは、上の例においては少なくとも、「価値観の違い」という表現は「空っぽ」であったということです。二回ほど挿入されかけた「価値観が合わない」という主張は有意味な主張ではなく、諦念の表れでしかありません。

 はじめに「価値観の違い」という説明を与えることに違和感を抱かなかった読者は、「価値観の違い」という表現が有意味に使用されていたというのは幻惑に過ぎなかったのだとおわかりいただけたでしょうか。

 

 例2:「人生の勝者とは何か」


C「人生の勝者とは何だと思う?」
A「俺は、いい女を連れて、高いバーで高い酒を飲める奴が人生の勝者だと思う。」
B「僕は、他者に惑わされずに、自分の好きなことを追求して生きていける人が、人生の勝者だと思う。」
C「そうか。まぁ、価値観の違いだね。」

 「価値観の違い」で片付ける代わりにCにできたかもしれないことは数多く考えられます。例えば、抽象度を揃えることです。Aの答えは具体的ですが、Bのそれは幾分抽象的です。答えの次元を揃えたら、同じことを言っていたことが発覚する、ということはあり得るのです。

 フォロー・アップの質問を投げかけることによって、Aの理解を明確にすることもできます。例えば、「いい女を連れて、高いバーで高い酒を飲んでいるのに、君が人生の勝者感を感ぜられないということは絶対にあり得ないのか。」と聞かれ、Aは「確かに。それらを達成したのにも関わらず、思っていたような満足感を得られなかったという未来は容易に想像できる。」と認めるかもしれません。そしてそれに続けて、「そうだったとしても、俺はそれが人生の勝者だと思う。」というのならば、Aにとって「人生の勝者」であるか否かは、本人の自己肯定感の程度とは無関係だということが推察されます。

 ここで、Bに対してもフォロー・アップの質問をしたところ、自己肯定感を得られていないのならば「人生の勝者」とは言えない、という答えが返ってきたのであれば、次のように整理できます。

A:「ある人が人生の勝者であるか否かは、彼の自己肯定感とは無関係だ。」
B:「ある人が人生の勝者であるか否かは、彼の自己肯定感と密接な関係にある。」

 ここまで整理されたのならば、「価値観の違いだね」という評価が正当になされうるでしょうか。

 まだまだCにはやれることが多く残されているように思います。 

 

Aの自己認識を疑う

 例えば、本人も自覚していない、Aの真の性質を引き出すような質問をする、というのはどうでしょう。Aは高校時代、「日本人は誰でも、現役で名門の国立大学に合格したならば人生の勝者になれる」、と考えていたとしましょう。ところが、Aは実際に現役で国立大学に入学したのち、留年を繰り返し、今や自己肯定感は極小値を記録しています。このような経緯を知っているCに「高校生の君の基準に従えば、今の君は人生の勝者だが、どうなのか。」と聞かれ、Aが「私は人生の勝者ではない」と答えたのならば、Aの中で「勝者」概念の内実が過去4、5年で変化したことが伺えます。ここで、なぜ変化したのか、という追撃に対し、Aが「勝者がこのように惨めな気分を味わうはずはない。私は端的に追い求めるものを間違っていたのだ」と答えたとしたら、Aは自己肯定感と「勝者」概念とを切り離せない関係に置いていると考えられます。

 この時点で、先の「思ったような満足感が得られなかったとしても、それが達成されたなら俺は勝者だ」という発言の信憑性が乏しいことがわかります。つまり、Aがそれを認めるかはともかく、客観的に観察する限り、「勝者」であるかどうかと自己肯定感の程度との間に彼が関係性を見出していることは蓋然的と思われ、この結果に則る限り、AとBの間に価値観の違いはありません。

 

問の意味が不明瞭

 また、初めの問の適切性に疑いの目を向けることも可能です。そもそも、「勝者」などという冠を巡って話している以上、自己肯定感と切り離して議論することに無理があるのではないでしょうか。あるいはまた、「人生の」という仕方でスコープを広く取り過ぎていることにも問題があるかもしれません。というのも、既述の問答からもわかるように、「勝者」概念の中身が何なのかは経験に応じて変化する可能性が高いのですから。

 この例では、Cが問いを投げかけた時点で、是正されるべき点が数多く存在していたにも関わらず、A、Bが回答へと進んでおり、齟齬が齟齬を生む結果となっています。そして、随所で使用され得た「価値観の違い」という評価は、齟齬の解消を怠る際に使われる、体のいい決まり文句に過ぎなかったのです。

 

後編に続きます。

「価値観の違い」(後編):「乗り越えがたい壁」を乗り越える - 入口のない洞窟で。

*1:子供が大人に対して繰り返し投げる「なんで」は、理由を問うているというよりも寧ろ、困惑や不満を表出する際に発せられる音だとみられるべき、というのは、本稿の論旨と直接関わりがないとはいえ興味深い観点です。

*2:そもそもある物体が何色として知覚されているかが問題となっているような場合はこれに該当します。「私は、これは青色だと思う」という陳述に対して「なぜ、そう思うのか」と問うのはナンセンスです。

改竄された過去を再構成する

 

現実からの逃避

十三年前の嘘 

 私はかつて、バイオリニストとして生計を立てていくことを夢見ていましたが、コンクールで成績を出せなかったことをきっかけに学問の道へ転向しました。十一歳の幼い私は、かかる路線変更に次のような正当化を与えていたように思います。「芸術の世界では、努力は定量的に評価され得ない。学問の世界においては、努力は過不足なく報われる。私は確実に成功を掴める道を歩む。」言葉遣いはともかく、内容に関する限り、脚色は含まれていません。

ありがちな解釈

 私はこれまで、現実に対してかかる正当化を施した過去の自分自身を糾弾してきましたが、その背後には次のような理解がありました。すなわち、努力が報われる世界とそうでない世界とが存在するわけでもなければ、コンクールでの敗退が音楽という分野の特性に起因するわけでもない。端的に、私は最大限の努力をしておらず、その事実に目を向けることを拒んでいた、と。

 要約すれば、私が自身の過去に与えた評価は、<現実からの逃避>でした。

 ところが、直近の経験に鑑みて過去を再構成すると、かかる理解が不十分である可能性が浮上してきたのです。

 

新たなる解釈の可能性

他者による評価と幸福

 私は一月ほど前にPodcast番組の配信を始めました。目的意識も希薄なまま、行為それ自体に楽しみを見出しつつ収録・編集・配信を継続してきたわけですが、有難いことに視聴者が増え始めると、私が長らくそれと縁を切っていた、ともすれば不幸をもたらすところの存在者と、自身が濃厚な関係を築いていることに気付かされたのです。それはすなわち、他者による評価です。

 これは経験則に基づく持説であるため、異論の余地は大いに存在しますが、他者が下す評価を憂う状態というのは幸福感からは程遠いように思います。どこかの時点でこれを悟った私は、他者による評価の届かない領域に隠居するようになったのでしょう。大学に入学し、夜と出会って哲学に恋をした経緯にはこうした事情があったのかもしれません。 

哲学という「個人主義」?

 私見では、哲学は数多の学問分野の中でも最も「個人プレイ」感の強い分野の一つです。個々の学者がそれぞれの関心領域を掘り下げていて、領域特有のジャーゴンや論法を確立しがちであるため、門外漢による干渉の可能性が極めて低いのです。特定の専門分野に精通した、「互いに話の通じる」少数の学者らの間で研究が進み、その成果が他の哲学者に全くもって理解されないということが少なくないように思われます。

「私」の存在しない世界

 また別の観点では、そもそも他者による評価が不可欠であるところの論文においてさえ、矛盾や誤謬の指摘は心的ダメージをもたらしません。というのも、問題の所在が論文執筆者個人の内であるという気がされないからです。論理的な観点からして解決されるべき問題が執筆者の外部に存在していて、それを執筆者と査読者が共に眺めている。査読者の助言に従って、執筆者は曇りのない目で当該の問題を見ようとする。問題は限りなく客体化された状態にあるのです。

極めて個人的な問題

 ところが、ここ数日間に渡って私に波状攻撃を加えている問題群はこの種のものではありません。それらは差し当たり、私が客体化できるようなものではないように思われます。声質、笑い方、話す速度、相槌、語彙の乏しさ、知識や教養の不足、etc.、こうした事柄は極めて個人的で、原理的に客体化され得ない問題であるという描像が今の私を強く支配しており、これが払拭される兆しはみられません。

 これらの問題が自覚されるだけでも相当程度の不快感を覚えるのですから、他者にこうしたことを指摘された場合の心的ダメージが極大となることは言うに及びません。ここ数日、私の脳内は他者による評価で飽和しています。

忘却された真相 

 屈託に沈みがちな自己を可能な限り客観視する中で、これが、長らく忘却されていた精神の闇であること、そして、これこそが、私が十三年前に音楽の道を自ら閉ざした本当の理由である、ということの確からしさが自身の内で強く意識されるようになりました。

 私の過去に与えられるべき正当な評価は、<他者からの逃避>であったと思います。