「価値観の違い」(後編):「乗り越えがたい壁」を乗り越える

 

後編前記 

 前編では、「価値観の違い」という表現の使用を次のような切り口で批判しました。すなわち、意見の相違が認められるときに、この表現によって何事かを指摘し得たかのように思われるのは、言語がもたらした幻惑なのである。そして、議論を通して互いの主張の意味や前提条件を明確化するならば、見解の相違が表面上のものに過ぎないということ、或いは相違の内実が明らかになるだろう、と。かかる批判は、「価値観の違い」という表現に内在する危険性を認識しない言語使用者に向けられており、筆者の提案を簡潔に述べるならば、「その表現は空っぽだから、もう少し話し合って、よく考えよう」ということになるのでした。

 後編では、議論の末に顕現する「乗り越えがたい壁」を「価値観の違い」と呼ぶべきか否かを考え、己の信条にしたがって「価値観の違い」という表現を意識的に使用する俗流相対主義者を批判します。 

二つの相対主義と「乗り越えがたい壁」

俗流相対主義と 「乗り越えがたい壁」

  <あらゆる意見は、それをもつ者の立場によって正当化される>とする考え方を俗流相対主義と呼びます。意見の相違が認められる場合に、「どの意見も間違いではなく、それぞれがそれぞれの仕方で正しい」というスタンスをとる者は俗流相対主義者です。

 俗流相対主義者のうちには、<どれだけ議論を重ねても原理的に解消され得ないような相違が存在する>という前提があります。今後、このような相違を「乗り越えがたい壁」と呼ぶことにしましょう。

 注意すべきは、以下で展開されることになる批判が、「乗り越えがたい壁」の存在を認めることそれ自体に向けられるものではないということです。問題の所在は、かかる乗り越えがたさをどのように理解するかにあります。

 

概念枠相対主義と「乗り越えがたい壁」

 私は、<どれだけ議論を重ねても原理的に解消され得ないような相違が存在する>という前提を受け入れる点においては、俗流相対主義者と足並みを揃えます。私は、「乗り越えがたい壁」が、事実として人々の間にしばしば出現することを認めています。<原理的に解消され得ない相違が存在する>という前提を受け入れることが相対主義へのコミットメントを意味するのであるならば、私は相対主義者でしょう。

  しかしながら、私は俗流相対主義者ではありません。言うなれば、私は概念枠相対主義者です。概念枠というのは、経験を通して人が獲得した概念の総体であり、その人が世界を理解する可能性の総体です。概念枠相対主義というのは、人々の間に概念枠の相違があるために、相互理解が得られない可能性がある、という考え方です。以下、具体的な事例を用いて詳述しましょう。

 

「性欲」という概念の獲得

 本稿の内容のレヴェルを考慮すれば、読者の皆様が「性欲」という概念を獲得しているであろうことは間違いないでしょう。

 ここで、「性欲」という概念を説明するよう求められて、文字通り生き字引のごとく翻訳を与えることができる必要はありません。「性欲」という語彙が登場する文、例えば「性欲が強い」や「性欲に襲われた」等を理解したり、「不倫」という語から「性欲」を連想できたりするのであれば、その者は「性欲」という概念を獲得していると言えるでしょう。

 それでは、八歳の少年少女は「性欲」という概念を獲得しているでしょうか。恐らくは、否、でしょう。このことが、彼らの国語力の低さに起因するのではないということは重要です。仮に言語使用に熟達した八歳児が、辞典で「性欲」という語彙に出会ったとしても、彼はその概念を獲得しないでしょう。ここで、「性欲」という概念を獲得するというのは、上で述べられた例文を理解したり、文脈の上で関連性のある他の語彙から「性欲」を連想したりすることだということを思い出してください。辞書の説明を読んだだけでは、どれだけ国語力が高かったとしても、彼にできるのはせいぜい、その説明を繰り返すことくらいでしょう。

 八歳児が「性欲」という概念を獲得することの不可能性は、次のことに起因します。すなわち、「性欲」という概念の獲得は、言語運用能力の他に「性欲」に特有の経験を必要とし、八歳時はそのような経験を享受し得ない、ということです。肉欲が原因で理性を失いかける、というような経験をしない限り「性欲に襲われる」という文を理解することはできないでしょう。また、「人によって性欲の強さは異なる」という文を理解するためには、「性欲」という語彙を理解する他者と「性欲」について対話を行う必要があるでしょう。八歳児は、こうした経験を享受するのに十分な身体的発達を欠いています。だからこそ、八歳児は「性欲」という概念を原理的に獲得し得ないのです。

 

概念枠のズレが齟齬を生む

 八歳の少年少女がもつ概念枠は、私や読者のそれに比して、「性欲」という概念の分だけ未熟、未発達です。それでは、このようにして概念枠を異にする二人の人間が対話を行う場合に、どのようにして相違が顕在化するのかを考えてみましょう。

 八歳の少年と私がテレビでニュースを見ており、そこで芸能人の不倫事件が扱われていたとします。このとき、少年は不貞行為に及んだ人物を糾弾します。「伴侶以外の人を好きになるなんて、あり得ない。僕は一生、誠実に生きる自信がある。」という具合に。一方、私は当事者に対して理解を示します。「現在バイアスに抗えなかったか。」と。

 ここで両者の間にみられる態度の違いは、価値観の相違に起因するのではありません。「性欲」という概念をもたない八歳の少年は、人が不倫行為に及ぶ経緯を理解していないのです。したがって、「好きな人を一生大切にする」と宣言している彼は、必ずしも「誠実」だとは言えません。というのも、彼は未だ、誠実に生きることの難しさを知らない身分であるのですから。

 

概念枠の相違は、経験の相違を意味する

 興味深いのは、他者の不倫行為に理解を示さないのは、「性欲」という概念をもたない少年少女だけではない、ということです。「性欲」という概念を獲得して久しい大人たちの中にも、有名人の不倫報道に並々ならぬ興味を示して、非難の声をあげる者は少なくないでしょう。こうした、社会的に抹殺されかねない哀れな有名人達を激しく糾弾する大人と、彼らに理解を示す大人との間には、やはり概念枠の相違があると思われます。

 上で展開された、「性欲」という概念の獲得についての議論を通して、既にそれを洞察された読者もおられるかもしれませんが、概念枠というのは経験を通して拡張されます。それゆえ、概念枠の相違は、経験の相違の結果なのです。他者の不倫行為に理解を示す大人と示さない大人との間にもまた概念枠の相違が、したがって経験の相違があります。それは、「モテる」という経験の相違に他なりません。

 不倫行為に及ぶ芸能人というのは、恐らく一般の人々以上に何らかの魅力を持っているのでしょう。それは容姿であるかもしれませんし、コミュニケーション能力、或いは経済力かもしれません。幸か不幸か、彼らは、その魅力に惹きつけられて集まった同様に魅力的な人間達に囲まれています。そしてその中には、一線を超えるよう誘惑する者もあるでしょう。

 これは、ごく一部の人間にのみ与えられる類まれな経験であり、大多数は、これほどまでに理性を試される状況に身を置くことはありません。換言すれば、「モテない人」は、「モテる人」の悩みを理解するのに十分な経験、すなわち「モテる」という経験を欠いています。

 言うまでもありませんが、ここでは勿論、十分な経験を積んで概念枠が拡張されると、不倫行為に対する善悪の判断が揺らぐ、ということが主張されているのではありません。概念枠の拡張された者は、「不倫は善くない」ということには強く同意しつつも、己が善とすることを徹底できない人間の弱さを理解でき、自分もまた肉欲の被害者になる可能性を考えられる、ということです。

 

俗流相対主義を批判する

経験的非対称性

 人々の間に見解の相違が認められた場合、俗流相対主義者は、個々の意見をそれぞれの立場によって正当化するのでした。言い換えれば、俗流相対主義者にとっては、あらゆる意見は正しく、議論に参加している者たちは互いに平等な地位に置かれているのです。

 しかし、八歳の少年と私は、不倫行為の議論においては決して平等な関係にはありません。「性欲」という概念を獲得していないという点において、八歳の少年は圧倒的に不利な立場にあり、彼がどれだけ表面上論理的な議論を展開したとしても、「彼は経験不足による情報不足に陥っている」として、私は確信を持って彼の結論を棄却できるでしょう。これは特異な状況ではなく、例えば教育現場で働く大人は子供に対してこうした態度を頻繁に取るでしょう。

 ここで注意すべきは、かかる経験的非対称性は、大人と子供の間のそれに留まらないということです。大人同士でも、大人と子供の間に認められるのと本質的に同様の非対称性が存在します。大学卒業後も読書をし、思索を行い、他者と議論を交わし、新しい経験を享受するのならば、概念枠は拡張され続けます。こうした生活を送る者の概念枠と、義務教育で学習をやめた者の概念枠との間には、教師と生徒の間に認められるのと同様の非対称性が存在します。

 

概念枠相対主義パターナリズム

 同じ相対主義者でも、「人々の意見は、等しく正しいのだ」とする俗流相対主義者と、「概念枠の発達の度合いに応じて、人々の主張の正当性には非対称性が認められる」とする、筆者のような概念枠相対主義者とでは、前者の方が番人受けするでしょう。というのも、一般に「平等」は好まれるものだからです。

 概念枠相対主義者の中には、概念枠の発達の度合いに応じて権力関係を作り出し、議論というよりも寧ろ、パターナリスティックな「知識享受」と呼ぶべき行為に及ぶ者もいるかもしれません。なるほど、これは議論としては理想的な状態ではありません。しかし、こうした問題は議論の技術を高めることによって回避できます。

 筆者が受けた学部教育には、ディスカッションの授業がありましたが、これを通して学生達が学ぶべきは次のことでした。すなわち、知識や経験の程度に偏りがあったとしても、発言の量が平等になるよう努力すること。そして、議論への参加者の中でもっとも知識が豊富である者も、議論の末に新たな知識を手にすることができるような対話を目指すことです。

 議論において、発言に偏りが見られたり、一部の意見が蔑ろにされたりするという問題は、概念枠相対主義に内在する問題ではありません。それは、専ら議論の技術に関わるものです。言い換えれば、概念枠の発達度に関する非対称性を認めたとしても、議論が無価値になるわけではないのです。というのも、概念枠の相違が認められるのであれば、これを解消すれば良いからです。

 

「乗り越えがたい壁」を乗り越える概念枠相対主義

 注意深い読者は、矛盾を指摘するかもしれません。筆者は「乗り越えがたい壁」の存在を認める概念枠相対主義者であり、「乗り越えがたい壁」は原理的に解消できないのであるから、これを「解消すれば良い」というのは自己矛盾なのではないか、という具合に。

 ここで、「性欲」の例を思い出しましょう。八歳の少年と私の間には経験的非対称性があり、対話の中で顕現した「乗り越えがたい壁」は確かに解消され得ません。しかしながら、この少年が身体的な発達を遂げ、十分な経験をしさえすれば、彼はいずれ「性欲」という概念を獲得するでしょう。私は、彼がそれを獲得する時をひたすら待てば良いのです。その時がくれば、私は彼と「性欲」について語らうことができます。そして我々は、有名人の不倫行為に対する見方の相違を解消するかもしれません。

 概念枠の相違は必ずしも、解消するのにこれだけ長い時間がかかるわけではありません。「性欲」のごとき、その獲得において経験に依存するところの多い概念はともかく、例えば大学で学生達が議論するような場合については、その場で知識を補い合う力さえ持っていれば簡単に解消されてしまうようなつまらない差異がほとんどでしょう。

 <どれだけ議論を重ねたとしても原理的に解消され得ないような相違>すなわち「乗り越えがたい壁」は、なるほど時間 t を固定すれば、確かに原理的に解消不可能です。しかし、未来まで時間を拡張して考えれば、決して乗り越えられないわけではないのです。というのも、十分な知識や経験が伴うのを待ちさえすれば、概念枠の相違は解消されるのですから。つまり、概念枠相対主義においては、「乗り越えがたい壁」は乗り越えられるのです。

 

「乗り越えがたい壁」を置きたがる俗流相対主義

 一方、俗流相対主義者は、非対称的な関係を忌避することからか、形式的に対等な関係を厳守します。そして見解の相違が認められる場合には、ここに「立場」や「価値観」の相違が存在する、とします。

 ここでは、「乗り越えがたい壁」は、時間 t においては勿論、将来的にも解消される可能性をもたない障壁となります。というのも、俗流相対主義においては、「私」の意見は「私」の立場によって正しく、「私」が「私」でなくなることはないからです。

 俗流相対主義者は、「互いを認め合う」と表現されれば聞こえは良いのでしょうが、結局のところ、<自身の考えを絶対的に肯定する>という暴挙を互いに認め合っているに過ぎないのです。「みんなちがって、みんないい」というのは、裏を返せば、「私は自分のやり方を疑いたくない。だから、君のやり方を疑うこともしない。」なのです。

 なるほど、俗流相対主義者は自身の考えを押し付けませんから、その点においては一定程度の人間的魅力を持っているのかもしれません。しかしながら、ともすれば連想されがちであるところの、「多様な意見を受け入れそう」という肯定的な印象は、まやかしであると言わざるを得ません。というのも、彼は、自身が盲目的に信仰している事柄を疑う気のない不誠実な人間なのですから。

 

終わりに

 前編・後編に分けて、「価値観の違い」という表現を批判的に考察してきました。前編では、この表現の使用に思考が伴っていないことを、後編では、この表現の使用に誠実さの欠如が認められることを指摘しました。両方を読まれた読者は、「価値観の違い」という表現を使用したいという誘惑から解放されたはずです。

 「価値観の違い」という表現は、人々の間で見解の相違が認められる場合に頻繁に使用されます。そして、「価値観が違うのだから、認め合おう」というようなことが言われます。しかし、結論を述べ合って会話を終わらせることは「互いを認め合う」ことにはならないでしょう。各々が、相手の思考過程に興味を持ち、尚且つ己の結論を疑うこと、これこそが「互いを認め合う」ことです。そして、これを行うことにとっては、少なくともそれが議論を停止させる効力を発揮するのであれば、「価値観の違い」という表現は有害であり、使用されないのが妥当でしょう。