「価値観の違い」(前編):有意味であるという幻惑を払拭する

 

「価値観」という空虚な概念

 

 「価値観の違い」「考え方の違い」といった表現が使用される文脈は多岐に渡ります。親と意見が食い違えば「価値観の違い」、離婚の原因は「価値観の違い」、異国の人との対話で齟齬が生まれれば「価値観の違い」、etc.

 本稿において私は、一般的には自然だとみなされ得るであろう「価値観の違い」の使用が、実際には不適切であるということを幾つかの文脈を通して示していきます。

 

例1:「床材は何色にすべきか」

 次のような例を考えてみましょう。家を建てようとしている新婚夫婦が、床材の色をめぐって意見を対立させています。

 夫「俺は、床材は白色が良いと思う。」
 妻「私は、床材は黒色が良いと思う。」
 二人「価値観が合わないね。では、離婚するとしよう。」

 上記が離婚に至るほどの問題であるかどうかはともかく、こうした意見衝突を「価値観の違い」で説明する人々は一定程度存在するのではないでしょうか。読者の皆さんのうち、上で二人が「価値観が合わない」と結論したことに違和感を覚え、尚且つその理由を洞察する者は、以下を読み進める必要はありません。

 この例においては、個人の色の好みが問題になっていますから、何色のシャツを好むか、といった趣味判断と同様のものと思われ、したがって議論の余地がないと思われるかもしれません。しかしながら、「価値観の違い」として片付ける前に二人にできたことは様々にあり得ます。

 

「なぜ」と問うてみる

 子供にもできるのは、とりあえず「なぜ」と問うてみることです*1。勿論、「なぜ」と問うことがナンセンスであるような文脈は存在します*2。今回の文脈がそれに該当するか否かを判断するのは、「なぜ」と問うてみてからにしましょう。


妻「なぜ白色が良いのか。」
夫「部屋が明るくなるからだよ。部屋が明るいと、気分も明るくなる。」

 なるほど上のやりとりからは、「なぜ」と問うことはナンセンスでなかったのだとわかります。夫にとっては、床材として白色を好むことは、理由や説明を与える余地のないことではなかったのでしょう。実際に彼は目的論的な説明を与えることに成功しています。では、妻の方はどうでしょう。

夫「なぜ黒色が良いのか。」
妻「床材の色が暗めだと、心が落ち着くからよ。」

 妻の方も、床材に暗めの色を選ぶことの背景には合理的な説明があるようです。

 以上を踏まえ、意見の相違を整理しましょう。夫は部屋の明るさを、妻は部屋の落ち着きを強調しています。ここではもはや、<白色が好きか黒色が好きか>という、色の嗜好が問題ではなかったことがわかるでしょう。問題は寧ろ、<明るい部屋で明るい気分になりたいか、落ち着きのある部屋で落ち着いた気分になりたいか>という相違にあります。

 二人「価値観が合わないね。では、離婚するとしよう。」

 今回はどうでしょう。読者の皆さんは、二人は「価値観の違い」を持ち出すに相応しい局面に到達したと思われたでしょうか。理性的な議論は「気分」など扱い得ないから、これ以上話しても無駄だ、と諦められた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 私は、まだまだ諦めません。

 

「二重は絶対に良い」?

 ここで議論を前進させる論点として容易に思い浮かぶのは、次のものです。すなわち、床材の色の決定に関しては、先に述べられた「部屋を明るくする」や「部屋を落ち着かせる」といった根拠が絶対的に有意な地位を持っているのでしょうか。床材の色以外の、部屋を構成する諸要素が根拠となることはないのでしょうか。或いは、こう言うこともできるでしょう。床材の色は、部屋を構成する諸要素と相互依存的でないような仕方で、部屋を良くしたり悪くしたりするのでしょうか。

 アナロジーとして、人の顔について話しましょう。日本人には、「二重」や「大きな目」についてコンプレックスを抱えている方が多くいらっしゃるように思います。電車に乗ると、二重整形の宣伝広告がしばしばみられます。あたかも、二重であることが「絶対的に良い」と言わんばかりです。

 しかし、二重でないにも関わらず容姿が美しい人々(いくらでも存在します)は、二重整形をすればもっと美しくなるのでしょうか。或いは、とりあえず目が大きければ良いのでしょうか。私は、「目が大きくて、宇宙人みたいだ」という、多少なりともマイナスの印象を抱いた相手は過去に存在します。私はここで、「顔の大きさや鼻とのバランスを考えると、この人は目が細ければ絶妙に美しかったはずだ」ということを積極的に主張しています。

 我々は「二重」や「大きい目」について話すとき、目が大きい(或いは細い)ことが、絶対的に良い(或いは悪い)という描像を抱きがちですが、必ずしもそうとは限らないということは容易に想像され得ます。我々は実際、人の顔を見るとき、その個々のパーツというよりも寧ろ、その相貌をみています。彼の顔は芸能人の〇〇に似ている、という認識が先で、具体的にどのパーツが似ているのかという判断はその後に来る、という現象などはまさに、我々のそうした性質を示唆しています。

 要約すれば、こうなります。ある特定の要素の絶対的な良さや悪さについて論ずることは、我々において実際に行われている美的判断と必ずしも整合的ではないのです。

 以上を踏まえ、床材の色についての例に戻りましょう。

 

美的判断は「計算」ではない

 部屋の床材の色は、天井の高さ、吹き抜けであるか否か、窓が設置されている方角、間取り、家具の色といった、部屋を形成する、床材以外の諸要素と相互依存関係にあるのではないでしょうか。例えば、建設予定の家に二人が持ち込もうとしている家具の色が全て白色である、或いは黒色である、といった要素が考慮に入れられていない可能性はあります。床材に対して家具が浮き立つのが良い、或いは悪い、といったことまで含めて考えると、「床材の色が明るいと部屋が明るくなる」「床材の色が暗いと部屋が落ち着く」といった判断基準は、床材の色の決定に関して絶対的に優位な位置にある、とは言えないのではないでしょうか。

 夫と妻の双方が以上を理解した場合、次のような描像を得られると思います。すなわち、はじめに抱えていた意見の衝突はもはや衝突ですらなく、他の諸要素から独立に床材の色を論じた場合の、特定の色が持つ特定の効用が話されていたに過ぎない。そして、床材の色の決定は、他の諸要素を踏まえた綜合的な検討の末になされねばならない、と。

 

「価値観」は空っぽだった

 以上の議論から二つのことがわかります。一つは、「価値観の違い」として片付ける前に考えるべきことは多く存在するということです。実際、上の議論では、特定の色がもたらす効用についての情報が共有されただけでなく、そうした効用を基に部屋全体の良さを論ずることの妥当性についても触れられ、結果として床材の色の決定は先送りとなりました。もう一つは、上の例においては少なくとも、「価値観の違い」という表現は「空っぽ」であったということです。二回ほど挿入されかけた「価値観が合わない」という主張は有意味な主張ではなく、諦念の表れでしかありません。

 はじめに「価値観の違い」という説明を与えることに違和感を抱かなかった読者は、「価値観の違い」という表現が有意味に使用されていたというのは幻惑に過ぎなかったのだとおわかりいただけたでしょうか。

 

 例2:「人生の勝者とは何か」


C「人生の勝者とは何だと思う?」
A「俺は、いい女を連れて、高いバーで高い酒を飲める奴が人生の勝者だと思う。」
B「僕は、他者に惑わされずに、自分の好きなことを追求して生きていける人が、人生の勝者だと思う。」
C「そうか。まぁ、価値観の違いだね。」

 「価値観の違い」で片付ける代わりにCにできたかもしれないことは数多く考えられます。例えば、抽象度を揃えることです。Aの答えは具体的ですが、Bのそれは幾分抽象的です。答えの次元を揃えたら、同じことを言っていたことが発覚する、ということはあり得るのです。

 フォロー・アップの質問を投げかけることによって、Aの理解を明確にすることもできます。例えば、「いい女を連れて、高いバーで高い酒を飲んでいるのに、君が人生の勝者感を感ぜられないということは絶対にあり得ないのか。」と聞かれ、Aは「確かに。それらを達成したのにも関わらず、思っていたような満足感を得られなかったという未来は容易に想像できる。」と認めるかもしれません。そしてそれに続けて、「そうだったとしても、俺はそれが人生の勝者だと思う。」というのならば、Aにとって「人生の勝者」であるか否かは、本人の自己肯定感の程度とは無関係だということが推察されます。

 ここで、Bに対してもフォロー・アップの質問をしたところ、自己肯定感を得られていないのならば「人生の勝者」とは言えない、という答えが返ってきたのであれば、次のように整理できます。

A:「ある人が人生の勝者であるか否かは、彼の自己肯定感とは無関係だ。」
B:「ある人が人生の勝者であるか否かは、彼の自己肯定感と密接な関係にある。」

 ここまで整理されたのならば、「価値観の違いだね」という評価が正当になされうるでしょうか。

 まだまだCにはやれることが多く残されているように思います。 

 

Aの自己認識を疑う

 例えば、本人も自覚していない、Aの真の性質を引き出すような質問をする、というのはどうでしょう。Aは高校時代、「日本人は誰でも、現役で名門の国立大学に合格したならば人生の勝者になれる」、と考えていたとしましょう。ところが、Aは実際に現役で国立大学に入学したのち、留年を繰り返し、今や自己肯定感は極小値を記録しています。このような経緯を知っているCに「高校生の君の基準に従えば、今の君は人生の勝者だが、どうなのか。」と聞かれ、Aが「私は人生の勝者ではない」と答えたのならば、Aの中で「勝者」概念の内実が過去4、5年で変化したことが伺えます。ここで、なぜ変化したのか、という追撃に対し、Aが「勝者がこのように惨めな気分を味わうはずはない。私は端的に追い求めるものを間違っていたのだ」と答えたとしたら、Aは自己肯定感と「勝者」概念とを切り離せない関係に置いていると考えられます。

 この時点で、先の「思ったような満足感が得られなかったとしても、それが達成されたなら俺は勝者だ」という発言の信憑性が乏しいことがわかります。つまり、Aがそれを認めるかはともかく、客観的に観察する限り、「勝者」であるかどうかと自己肯定感の程度との間に彼が関係性を見出していることは蓋然的と思われ、この結果に則る限り、AとBの間に価値観の違いはありません。

 

問の意味が不明瞭

 また、初めの問の適切性に疑いの目を向けることも可能です。そもそも、「勝者」などという冠を巡って話している以上、自己肯定感と切り離して議論することに無理があるのではないでしょうか。あるいはまた、「人生の」という仕方でスコープを広く取り過ぎていることにも問題があるかもしれません。というのも、既述の問答からもわかるように、「勝者」概念の中身が何なのかは経験に応じて変化する可能性が高いのですから。

 この例では、Cが問いを投げかけた時点で、是正されるべき点が数多く存在していたにも関わらず、A、Bが回答へと進んでおり、齟齬が齟齬を生む結果となっています。そして、随所で使用され得た「価値観の違い」という評価は、齟齬の解消を怠る際に使われる、体のいい決まり文句に過ぎなかったのです。

 

後編に続きます。

「価値観の違い」(後編):「乗り越えがたい壁」を乗り越える - 入口のない洞窟で。

*1:子供が大人に対して繰り返し投げる「なんで」は、理由を問うているというよりも寧ろ、困惑や不満を表出する際に発せられる音だとみられるべき、というのは、本稿の論旨と直接関わりがないとはいえ興味深い観点です。

*2:そもそもある物体が何色として知覚されているかが問題となっているような場合はこれに該当します。「私は、これは青色だと思う」という陳述に対して「なぜ、そう思うのか」と問うのはナンセンスです。